ヘブル人への手紙11章28節について

「新改訳」聖書のヘブル人への手紙11章28節に、「信仰によって、初子を滅ぼす者
 
が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行ないました。」とあり
 
ます。
 
この中の、「彼は過越と血の注ぎとを行ないました。」のところについてですが、ここ
 
には、「彼」が二つのことを「行ないました。」と書かれています。一つは、「過越」で、
 
もう一つは、「血の注ぎ」です。
 
「彼」というのは、「モーセ」です。それは、11章24節から読むと分かると思います。
 
24節から27節までを引用します。
 
 
24節 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
 
25節 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選
 
     び取りました。
 
26節 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と
 
     思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
 
27節 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。
 
     目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
 
 
この後(あと)、冒頭の28節に続きます。
 
 
26節に、「キリストのゆえに受けるそしり」という、とても興味深い言葉があるので
 
すが、今は、それには触れないで、ここでは、この「そしり」が、25節の、「神の民と
 
ともに苦しむこと」に当たる、と考えられるということを述べたいと思います。もち
 
ろん、この「そしり」と「苦しむこと」を関係させずに読むこともできると思います。
 
 
物語の流れとしては、モーセは、神の民とともに、苦しむことを選んだ。キリストの
 
ゆえに、そしりを受けるが、そのそしりは、エジプトの宝にまさる大きな富である、
 
モーセは思った。そのエジプトの宝にまさる大きな富というのは、耐え忍ぶこと
 
によって、報いとして与えられるものでもあり、モーセはそれから目を離さなかった。
 
そして、モーセは、王の怒りを恐れないで、エジプトを去った。モーセには、信仰
 
があったからである。というようなものとなるのではないか、と思われます。間違っ
 
ていたら、訂正いたします。
 
 
ここで、言いたかったのは、26節に2回、27節に1回出てくる「彼」は、「モーセ」を
 
指している、ということです。これは、ほぼ間違いないと思われますが、もし、間違
 
っているようでしたら、ご指摘していただけたらと思います。
 
 
そして、28節に出てくる「彼」もまた、「モーセ」を指している、と言ってよいと思い
 
ます。
 
 
そうすると、「彼は過越と血の注ぎとを行ないました。」というのは、「モーセは過越
 
と血の注ぎとを行ないました。」ということになります。モーセが二つのことを行なっ
 
たことになります。一つは、「過越」で、もう一つは、「血の注ぎ」です。
 
 
このうち、「血の注ぎ」については、モーセが行なったとしてもよいと思いますが、
 
「過越」については、どう思われるでしょうか。「過越」は、「神」が行われることだと
 
思うのです。
 
 
この点、「新共同訳」では、次のようになっています。
 
 
28節 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、
 
     過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。
 
 
このように、「新改訳」では、「過越」となっているところは、「新共同訳」では、「過
 
越の食事」となっています。わたしは、こちらの訳、つまり、「過越の食事」という訳
 
のほうがよいと思います。みなさんは、どのように思われるでしょうか。
 
 
つづく。