ルカ22章16節について

「新改訳」聖書のルカ22章16節に、「あなたがたに言いますが、過越が神の国にお
 
いて成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
 
とあります。この中の、「過越が神の国において成就するまでは」の「過越が神の国
 
において成就する」の部分についてですが、みなさんは、この部分をどのように理解
 
されるでしょうか。
 
 
どういうことかと言いますと、この部分の主要な内容は、「過越が・・・成就する」
 
です。「過越が・・・成就する」とは、どういうことでしょうか。
 
 
「過越」については、例えば、出エジプト記12章12節と13節に、こうあります。
 
 
12節 その夜(よ)、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、
 
     エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさ
 
     ばきを下そう。わたしはである。
 
13節 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたし
 
     はその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を
 
     打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
 
 
12節の最後の文、「わたしはである。」から分かる通り、「わたし」は、「」です。
 
この「」は、「新改訳」では、太字になっています。これは、「主のみ名」または
 
「神のお名まえ」です。「文語訳」では、「ヱホバ」となっています。
 
 
12節に2回、13節に2回、「わたし」がでてきます。それらはすべて「」であり、
 
「ヱホバ」であり、つまり、「神」です。
 
 
13節の「あなたがたのいる家々の血」というのは、「子羊かやぎ」の血です。その
 
ことは、出エジプト記12章5節から7節までを読むと分かります。こうあります。
 
 
5節 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かや
 
    ぎのうちから取らなければならない。
 
6節 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民
 
    の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり
 
7節 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
 
 
5節に、「あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊
 
かやぎのうちから取らなければならない。」とあります。「それを」の「それ」という
 
のは、「傷のない一歳の雄」と考えられます。「羊」なんだけれども、「やぎ」でもよい、
 
ということになります。
 
 
6節に、「あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。」とあります。「そ
 
れを」の「それ」は、「子羊かやぎ」と考えられます。その「子羊かやぎ」を、「夕暮れ
 
に・・・ほふり」ます。「ほふる」というのは、広辞苑では、二つの意味があるので
 
すが、二番目の意味は関係ないので、一番目の意味を書きます。こうあります。
 
 
「①体を切りさく。きり殺す。はふる。」
 
 
そして、7節に、「その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それ
 
をつける。」とあります。つまり、「子羊かやぎ」の「体を切りさ」き、「その血を取り、
 
羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに・・・つける」ということです。
 
 
ちなみに、「かもい」とは、広辞苑によると、「引戸・襖(ふすま)・障子などを立て込
 
むため開口部の上部に渡した、溝を付けた横木。かもえ。」とあります。
 
 
13節の「あなたがたのいる家々の血」というのは、この「二本の門柱と、かもいに」
 
つけられた血のことです。この血を見て、「わたしは・・・あなたがたの所を通り越
 
そう。」(13節)となります。「通り越す」ことが、つまり、「過越」である、とわたしは、
 
理解します。
 
 
「過越」については、出エジプト記の12章23節にも書かれています。こうあります。
 
 
23節 がエジプトを打つために行き巡(めぐ)られ、かもいと二本の門柱にある
 
     血をご覧になれば、はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがた
 
     の家にはいって、打つことがないようにされる。
 
 
ここに、「過ぎ越され」という言葉があります。まさに、「過越」です。23節に2回でて
 
くる「」は、どちらも太字になっています。つまり、「神のお名まえ」、「ヱホバ」で
 
あり、「神」を意味します。「過越」をされるのは、どなたかというと、それは、「」で
 
あり、つまり、「神」です。
 
 
「過越」の際には、「わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エ
 
ジプトの地のすべての初子を打ち」(12節)ます。「わたし」というのは、もちろん、
 
」であり、「神」です。「打ち」というのは、「殺し」ということです。
 
 
このように見てくると、「過越が・・・成就する」というのは、「神」が、「エジプトの地
 
を巡り」終え、「人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打
 
ち」尽くしたときがそうである、つまり、「エジプトの地を巡り終え、エジプトの地の
 
すべての初子を打ち尽くしたとき」、「過越が成就した」と言えると思いますが、い
 
かがでしょうか。
 
 
ここまで、「過越が・・・成就する」というのは、どういうことかについて、見てきました。
 
 
次に、「過越が神の国において成就する」について、見てみたいと思います。
 
 
出エジプト記では、「エジプトの地において」、「過越」が行なわれました。これに対
 
して、「ルカ」では、「神の国において」となっています。出エジプト記の「過越」を、
 
「ルカ」の場合に当てはめて考えると、「神の国」には、「人をはじめ、家畜に至る
 
まで、エジプトの地のすべての初子」に相当するものが、「いる」、ということになると
 
思われるのですが、いかがでしょうか。つまり、「神の国」には、「滅ぼされるもの」
 
が、「いる」、ということになる、と思われるのです。
 
 
神の国」が、どのような者たちから成っているか、はっきりしたことは言えませ
 
んが、現時点で、わたしが思うのは、「神の国」は、キリスト・イエスと結びついた
 
者たち、キリスト・イエスに信仰をもつ者たちから成っているのではないか、という
 
ことです。そうすると、その中に、「滅ぼされるもの」が「いる」と考えるのは、難しい
 
と思われます。
 
 
ただ、例えば、「マタイ」8章11節と12節をどう理解するかによりますが、そのよう
 
な可能性、つまり「滅ぼされるもの」がいるかもしれない、ということを思わせる言
 
葉があります。こうあります。
 
 
11節 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御
 
     国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
 
12節 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりす
 
     るのです。
 
 
現時点では、はっきりしたことは言えませんが、仮に、「マタイ」8章11節と12節
 
が「過越」のことを言っているのだとしても、ルカ22章16節の「あなたがたに言い
 
ますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の
 
食事をすることはありません。」をよく考えると、「過越が神の国において成就する
 
までは・・・食事をすることはありません」というのは、「過越が神の国において成就」
 
したら、「食事をする」ということにならないでしょうか。ややこしいので、よく考えな
 
いと分からないのですが、「過越が神の国において成就する」と「食事をする」を比
 
べた場合、時間的にどちらが先になるか、というと、「過越が神の国において成就
 
する」が先になるのではないでしょうか。「成就するまでは食事をしない」です。
 
 
「成就しました、食事をしましょう」となるのではないでしょうか。出エジプト記
 
「過越」は、食事をした後に行なわれます。
 
 
このように考えると、何かがおかしい、ということになります。実は、ギリシャ語の
 
原文には、「過越」という単語はないのです。ただ、「成就する」という動詞、厳密
 
に言うと、「成就される」という受動態なのですが、この動詞が「3人称単数」の語
 
または語句を主語に取る、ということが分かっているだけなのです。したがって、
 
この「3人称単数」の語または語句が何を指しているのかを、文脈から判断しなけ
 
ればならないのです。
 
 
「新改訳」聖書の場合、文脈から判断した結果、「過越」という訳語を採用した、と
 
考えられます。日本聖書協会発行の「新共同訳」も、「過越」という訳語を採用して
 
います。日本聖書協会発行の、いわゆる「文語訳」も「過越」となっています。
 
 
はたして、本当に、「過越」という訳語でよいのだろうか、と思います。いや、「過越」
 
でよい、と言われる方、もしよろしければ、ご説明していただけるとありがたいです。
 
 
みなさんは、どのように思われるでしょうか。