「御霊(みたま)」について その1

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙8章9節に、次のように書かれています。
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9節
けれども、もし神の御霊(みたま)があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊(みたま)の中にいるのです。キリストの御霊(みたま)を持たない人は、キリストのものではありません。
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わたしは、「肉」について その1(2022-01-22)、から「その7」(2022-02-04)までで、肉にある者は、なぜ神を喜ばせることができないのかについて述べました。

 

また、「肉の思いは神に対して反抗するものだから」(ローマ8:7)、「肉の思いは死で・・・す」(同8:6)、の内容について述べました。

 

「肉」は「死」と結びついており、「御霊(みたま)」は「いのち」と結びついている、と言うことができると思います。ローマ人への手紙8章6節(「肉」について その1⦅2022-01-22⦆、中ほど)をご参照ください。

 

以前は「肉」について述べましたが、次に、「御霊(みたま)」について述べようと思います。

 

ローマ人への手紙8章9節(上記冒頭)1行目から、「・・・もし神の御霊(みたま)があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊(みたま)の中にいるのです。・・・」とあります。

 

「肉の中にではなく」というのは、「肉の中に『いるの』ではなく」、ということである、と言うことができます。

 

また、8章9節(上記冒頭)の記述から、「御霊(みたま)の中にいる」のなら、もはや、「肉の中に『いるの』ではな」い、と言うことができるのではないかと思います。

 

「御霊(みたま)の中にいる」というのは、「キリストの御霊(みたま)を持」(上記冒頭、9節)っている、ということであると考えられます。

 

キリストの御霊(みたま)を持ったが、それに従わないということがあるとすると、その場合は、「御霊(みたま)の中にいる」、とは言えないと思われます。

 

つまり、その場合は、「神の御霊(みたま)があなたがたのうちに住んでおられる」(上記冒頭、9節)、とは言えないと思われます。

 

「肉の中に『いるの』ではな」い、を言い換えると、『肉にある者』ではない、ということになると思います。

 

『肉にある者』ではない、とすると、その人は「肉の思い」から解放されている、と言うことができ、また、その人は、「死」を免れている、と言うことができるのではないかと思います。

 

「肉の思いは死であ」(ローマ8:6、「肉」について その1⦅2022-01-22⦆中ほど)る、ということからすると、「肉にある者」は「肉の思い」を持ち、「死」に束縛されていると考えられるのですが、「肉にある者」では『ない』なら、「死」に束縛されていない、つまり、「死」から解放されている、言い換えると、「死」を免れている、ということになると思います。

 

「御霊(みたま)の中にいる」人はそうである、ということです。

 

その2、に続きます。