「世の終わり」について その10

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書24章48節から50節までに、次のように書かれています。
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48節
ところが、それが悪いしもべで、『主人は*まだまだ帰るまい』と心の中で思い、

 

* 直訳「時間がかかる」

 

49節
その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
50節
そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰ってきます。
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48節に、「・・・悪いしもべ・・・」とあります。

 

「悪いしもべ」とは言え、「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべ」(24章45節)と同じ、『しもべ』です。

 

24章44節の、「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」という記述の直後に、45節から51節まで、『主人』と『しもべ』のたとえが記述されています。

 

この文脈からすると、『主人』は「人の子」を指している、と言うことができると思います。44節に、「・・・人の子は、思いがけない時に来るのです・・・」とあり、50節に、「そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰ってきます・・・」とあります。「人の子」が『主人』にたとえられている、と言うことができると思います。

 

そうすると、「人の子」には、「忠実な賢いしもべ」と「悪いしもべ」がいる、ということになります。どちらも、「人の子」に仕える者である、と言うことができます。なぜなら、「人の子」が、どちらにとっても、『主人』にたとえられているからです。

 

『主人』は「忠実な賢いしもべ」にとっても主人であり、「悪いしもべ」にとっても主人です。「人の子」が『主人』にたとえられているとすると、『主人』について言われていることは、「人の子」についても言えます。

 

つまり、「人の子」は「忠実な賢いしもべ」にとっても主人であり、「悪いしもべ」にとっても主人である、ということです。

 

「人の子」というのは、この場合、「イエス」のことと言うことができると思います。そうすると、「人の子」に仕える者というのは、「イエス」に仕える者のこと、となります。

 

「イエス」に仕える者というのは、イエスを手本としてイエスのようになることを目指しているような者、言い換えると、「イエス『のような』者」と言うことができるのではないでしょうか。

 

その11、に続きます。