『新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙3章23節と24節に、次のように書かれています。
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23節
すべての人は、罪を犯したので、*神からの栄誉を受けることができず、
* 別訳「神の栄光に達しない」
24節
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価(あたい)なしに義と認められるのです。
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「(23節)すべての人は、・・・(24節)ただ、神の恵みにより、・・・義と認められるのです。」とあります。
23節に、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(別訳、神の栄光に達することができず)、」とあります。つまり、「すべての人は、罪を犯したので」、その罪が赦され、また、取り除かれない限り、神からの栄誉を受けることができない、また、義と認められ、義とされることもできない、ということだと思います。
人は、どんなに良い行ないをしたからと言って、また、どんなに良い働きをしたからと言って、罪が赦されない限り、義と認められることはできない、ということになると思います。
では、どうしたら罪は赦されるでしょうか。
使徒の働き2章38節に、次のように書かれています。
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2章38節
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
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「・・・悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。・・・」とあります。イエス・キリストの名によってバプテスマを受けるなら、罪は赦される、と言うことができると思います。
人は、どんなに良い行ないをしたとしても、どんなに良い働きをしたとしても、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けない限り、罪が赦されることは無い、と言うことができると思います。
つまり、罪が赦されるのは、何らかの「働き」によるのではない、ということです。
イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける、ということは、イエスを信じる、ということです。神はイエスを信じる者の罪を赦される、神はイエスを信じる者を「あわれみ」、その「あわれみ」によってその者の罪を赦すという「恵み」を与える、ということではないかと思います。
そしてその「恵み」によって「すべての人は、・・・義と認められる」(ロマ3:23・24)、ということだと思います。
いかがでしょうか。