「神となる」について その1

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書11章19節と20節に、次のように書かれています。
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19節
わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らの*からだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

* あるいは「肉」

20節
それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
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「彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うため」(20節)に、「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだ(あるいは、肉)から石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」(19節)という文脈になります。

 

「彼ら」というのは、「エルサレムの住民」または、エルサレムにいる「イスラエルの家」のことと思われます。仮に、「イスラエルの家」のこと、とします。

 

20節2行目から、「・・・こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」とあります。「こうして」というのは、1行目からの「彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行う」ようになって、のことと言うことができると思います。

 

そして、「彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行う」ために、「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだ(あるいは、肉)から石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」(19節)という文脈になります。

 

「一つの心」すなわち「新しい霊」が与えられるまでは、彼らの「からだ」あるいは「肉」には、「石の心」がある、と言うことができると思います。

 

このエゼキエル書11章19節と20節に書かれていることとほぼ同じことが、同書36章26節から28節までに書かれています。

 

次に、それについて述べます。

 

その2、に続きます。